AI時代に「なぜ勉強するのか?」

なぜ勉強するのか ― AI時代に、それでも子どもに学んでほしい理由

「ねえ、なんで勉強しなきゃいけないの?」

お子さんにそう聞かれて、うまく答えられなかった経験はありませんか。「将来のため」「いい大学に入るため」——そう答えながらも、どこか心の奥で、自分自身も本当の答えを探しきれていないと感じたことがある方は、少なくないと思います。

まして今は、スマートフォンひとつで、どんな知識にもAIにも一瞬でアクセスできる時代です。「覚える」ことの意味が、以前よりずっと見えにくくなっています。

今日は、長年数学の教員として教壇に立ち、今は学習塾で子どもたちと向き合う中で考えてきた、「なぜ勉強するのか?」という問いへの、私なりの答えをお話ししたいと思います。答えは一つではなく、3つの層に分けて考えると、腑に落ちやすいと思っています。


第1の層:知識は、思考という料理をつくるための「材料」である

よく、「これからの時代は知識より思考力だ」という言葉を耳にします。AIがあれば知識はいつでも調べられるのだから、暗記よりも「考える力」を育てるべきだ、という考え方です。一見もっともらしく聞こえますが、私はここに強い違和感を持っています。

想像してみてください。どれだけ料理の腕がある人でも、冷蔵庫に食材が何もなければ、一皿の料理もつくれません。思考力とは、まさに「料理の腕」です。そして知識とは、その料理をつくるための「食材」なのです。食材(知識)がなければ、どんなに優れた腕(思考力)があっても、何も生み出すことはできません。

さらに言えば、思考力とは、実は知識と別のところにある独立した「筋肉」のようなものではありません。ある分野に関する豊かな知識を持っている人ほど、その分野において深く考えることができる——これは、認知科学の研究でも繰り返し示されてきたことです。「歴史を深く考える力」と「科学的に考える力」は、実は別々の力であり、共通の「考える力」を鍛えれば、どんな分野にも応用できる、というわけではないのです。

これを、もう少し身近な例で見てみましょう。

たとえば「なぜ江戸幕府は鎖国をしたのか」と聞かれたとき、知識がほとんどない状態では、「他の国と仲良くしたくなかったから」「日本だけでやっていきたかったから」といった、なんとなくの想像しか出てきません。材料(知識)がなければ、料理(思考)のしようがないのです。

しかし、「キリスト教が広まると大名たちが信仰でまとまり、幕府に逆らう力を持つかもしれない。実際に島原の乱という大きな反乱も起きた。それに、貿易の窓口を長崎一箇所に絞れば、幕府がその利益と情報を独占できる」——こうした知識があれば、これらの点と点が頭の中で結びつき、「だから鎖国したのだ」という筋の通った説明が、初めて生まれます。これが「思考する」ということです。知識がなければ、そもそも結びつけるべき点そのものが存在しないのです。

ここで、もう一つ大事なことに気づきます。歴史の「なぜ」を深く考えられる子が、そのまま理科の「なぜ」も深く考えられるとは限らない、ということです。同じ生徒に「なぜ氷は水に浮くのか」と聞くと、案外「軽いから」としか答えられなかったりします。これは、その子の「考える力」が弱いからではありません。氷が水に浮く理由を説明するには、「水は凍ると分子の並び方が変わり、同じ重さでも体積が大きくなる」という、歴史とはまったく別の種類の知識が必要だからです。

つまり、歴史を深く考えるための「材料」と、理科を深く考えるための「材料」は、まったくの別物です。「考える力」という一つの筋肉さえ鍛えれば、どんな教科にも効く、というわけにはいきません。それぞれの教科で、それぞれの材料(知識)を、地道に増やしていくしかないのです。

知識と思考力は対立するものではなく、知識という土台があってはじめて、思考という営みが可能になる——これが、子どもたちに伝えたい第一の理由です。だからこそ、AIに何でも聞けば答えが出てくる時代であっても、「知ること」そのものを軽んじてはいけないと、私は考えています。

コラム『AIが ”見えない部分” を推理できない理由』

ここで、面白いクイズを一つ紹介させてください。

問題)ある晴れた日、一人のサラリーマンが傘をさして歩いていました。空は快晴です。周りの人たちは「晴れてるのに、なんで傘なんかさしているの?」と笑いました。さて、このサラリーマンは、なぜ傘をさしていたのでしょうか。

これをAIに聞くと、「日傘としてさしているのでしょう」と答えるはずです。もっともらしい答えですが、これは不正解。正解は——数時間前まで雨が降っていて、濡れた傘をそのまま持ち歩くと臭くなってしまうので、乾かすためにさしていた、というものです。

なぜAIは間違えたのでしょうか。それは、AIには「数時間前は雨だったかもしれない」という、文章には書かれていない、状況の変化を推測する力が弱いからです。AIは、目の前にある文章の情報だけをもとに、いかにもそれらしい答えを組み立てます。しかし人間は、「傘」「晴れ」という手がかりから、「そういえばさっきまで雨だったな」「傘は濡れると臭う」といった、自分の中に蓄積された経験や知識を総動員して、真相を言い当てることができます。

このように、目に見える手がかりから、目に見えない背景を推理する力のことを、認知科学では「アブダクション」と呼びます。そして、このアブダクションの精度を決めるのもまた、その人がどれだけ豊かな知識や経験の材料を持っているかなのです。

問題2)数学者の岡潔は、あるとき、晴れているのに長靴をはいて歩いていたそうです。子どもたちは「なんで晴れているのに長靴をはいているの?」と笑いました。なぜだと思いますか。

正解は、岡潔にとって「人からどう見られるか」はどうでもよかったから、というものです。数学の世界に没頭していると、靴が長靴だろうと、服がちぐはぐだろうと、まったく気にならなかったのでしょう。

この問題を正しく推理するためには、「岡潔」という数学者が、どんな人物だったのかという知識が欠かせません。もしその知識がなければ、「雨が降ると思ったのかな」「単なる勘違いかな」といった、的外れな推理で終わってしまいます。知っていることが多ければ多いほど、目に見えない部分を正しく言い当てる力も強くなる——これもまた、知識が思考の材料であることの、何よりの証拠だと思います。

そして、ここには少し怖い側面もあります。AIに「答え」だけを尋ね続けていると、この「見えない部分を自分の頭で推理する」という経験そのものが失われていきます。答えを知ることと、答えにたどり着く過程を自分の力で歩むことは、まったく別のことなのです。


第2の層:「答えのある問題を解く」経験が、「答えのない問題に立ち向かう」力になる

もう一つ、よく聞かれる言葉があります。「これからは、答えのない問題に取り組む力が大事だ」というものです。これも、半分は正しく、半分は危険をはらんでいると思っています。

学校の勉強、特に数学や歴史のような教科は、基本的に「答えのある問い」を解く訓練です。これを「時代遅れだ」と切り捨てる声もありますが、私はむしろ逆だと考えています。答えのある問いに向き合ってきた経験の「総量」がなければ、答えのない問いに、根拠を持って向き合うことはできません。

これは、いわば「先人の知恵を追体験する」作業です。過去に多くの人が積み重ねてきた発見や解法を、自分の頭でもう一度たどり直す。この積み重ねがあってはじめて、「答えのない現実の問題」に直面したときに、これまでの知識や経験を手がかりに、筋の通った推論ができるようになります。歴史を何も知らない状態で、今起きている複雑な社会問題を「自分の”思考力”だけ」で判断するのは、実はとても危ういことなのです。

ただし、ここには注意も必要です。答えのある問題ばかりに慣れすぎると、「唯一の正解」を探す癖がついてしまい、逆に答えのない問題に対しても「正解はどこかにあるはずだ」と、探しものをするような姿勢になってしまうことがあります。大切なのは、答えのある問題を解く経験を土台としながらも、いずれはその先にある「答えのない問い」に、自分の意志で踏み出していくことです。この「量から質への転換」こそが、学びの一番難しく、そして一番大切な部分だと感じています。


第3の層:AIの時代だからこそ、「考えること」は孤独から自分を解放してくれる

そして、私が一番伝えたいのは、この第3の層です。

科学技術がこれからも進歩していけば、人と人とが直接顔を合わせて関わる機会は、これまでとは違う形に変わっていくでしょう。それ自体は、悪いことではありません。便利になり、選べる選択肢も増えていきます。しかし同時に、人は誰しも「誰かとつながりたい」という気持ちを、心の奥に持っています。この欲求が当たり前に満たされる人ばかりではなくなっていく——そんな未来が、少しずつ近づいているように思います。

ここで一つ、哲学者ハンナ・アーレントの言葉を借りたいと思います。彼女は、「孤独(独りぼっちで寂しいこと)」と「一人でいること」を、はっきりと区別しました。

一人でいても寂しくない人は、自分自身との対話ができる人です。頭の中に、もう一人の自分がいて、静かに語り合うことができる。逆に、たとえ誰かのそばにいても、自分の中に対話する相手を持たない人は、本当の意味で孤独になってしまう——アーレントは、そう考えました。

そして「考える」という行為は、まさにこの「自分自身との対話」そのものなのです。

豊かな知識を持っている人は、一人になったときも、頭の中でその知識同士が結びつき、新しい発見をする喜びを味わうことができます。一冊の本を読むことは、時代を超えた著者との対話になりますし、過去に学んだ数学の一つの定理が、思いがけず別の場面で「そうか、つながった」という閃きにつながることもあります。この「点と点がつながる瞬間」こそが、知的な喜びの正体であり、それは誰かと一緒にいなくても、一人で味わうことのできる、静かで豊かな娯楽なのです。

逆に、考えることをすべてAIに委ねてしまう人は、この「自分自身と対話する力」を育てる機会を失ってしまいます。技術が便利になればなるほど、皮肉なことに、そういう人ほど深い孤独を感じやすくなってしまうのではないか——これが、私が今、強く危惧していることです。


まとめ:家庭で、何を伝えられるか

3つの層をまとめると、こうなります。

  1. 知識という土台がなければ、思考という建物は建たない
  2. 答えのある問いを解いた経験の積み重ねが、答えのない問いに立ち向かう力を育てる
  3. 豊かな知識と思考の力は、これからの時代を一人でも豊かに生きるための、静かな支えになる

お子さんに「なぜ勉強するの?」と聞かれたとき、テストの点数や志望校の名前で答える必要はありません。「知ることは、あなたの中に、一生あなたを支えてくれる“もう一人の自分”を育てることなんだよ」——そんな言葉で伝えてみるのも、一つの形かもしれません。

家庭でできることは、実はとてもシンプルです。今日学んだことについて、食卓で「それってどういうこと?」と一言尋ねてみること。正解を求めるのではなく、お子さんが自分の言葉で説明しようとする、その過程に付き合ってあげること。それだけで、知識が一つずつ、お子さんの中でつながり始めます。

その積み重ねの先に、AIがどれだけ進歩しても代わることのできない、お子さん自身の豊かな内面が育っていくのだと、私は信じています。